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読書ノート 梨木編 [本]

梨木香歩の本 二冊

 10月の終わりごろから、詠み進めた梨木香歩作『沼地のある森を抜けて』を11月はじめに読み終えた。いつもながら、日常の生活を根底から揺さぶるような題材であり、奇想天外な展開力である。

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久美というオールドミスが、時子叔母の死を契機に叔母のマンションを引き継ぐ。意外な家宝といっしょに。それは、なんとぬか床である。そして、このぬか床は毎日かき回してやらないといけない厄介なもので、久美の生活を規定するようになっていく。ある日、そのぬか床から卵が発生し、過去のだれかに似たものが生まれてくる。・・・一族に隠された秘密は、いろんな登場人物によって、浮き彫りにされていく。久美は、ぬか床と自分の一族の関係を解明しようとして、叔母の友だちであった風野さんと一緒にある島に行く。

私は、久々に読書ノートを取り出して、キーワードを書き込んだ。ぬか床、酵母菌、微生物、ミクロフローラ、無性生殖、有性生殖など。

読書ノートには感想などは、書かない。キーワードであったり、登場人物であったり、たまには目次をそのまま写すくらいだ。いつ読み始めて、いつ読み終えたということも。ただし、読み始めの期日はかなりあやしい。

『沼地のある森を抜けて』の目次は、久美の物語が二つ入ったあと、(かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話Ⅰ)という挿話が入っている。それが、三分の一の量で三回、入ってくる。(かつて風に靡く・・・)の部分はかなり象徴的な話で、だれかの抽象絵画を想像させるが、最後に見事に久美の物語に合流している。

ようするに、これは命の物語である。命がタナトス(死)と非常に結びついた形で展開されていく。原始は細胞が分裂していくことによって、生命体が増えてきた。いつのころからか、生命は二つのものが一つになる有性生殖という形で繁殖するようになる。愛や恋といったものを超越して、生命が誕生していく。そんな不思議な光景をシマで体験していく久美。またまた、不可思議な梨木ワールドに誘われてしまった。

もう一冊は、『村田エフェンディ滞土録』。これは、ずっと前に買って読まずにツン読していた本だ。『沼地の・・・が面白かったので、探し出して読み出した。

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背景は、明治23年のエルトゥール号遭難事件で土耳古(とるこ)政府が、当時和歌山県串本町の村民が献身的に遭難者を助け出したことに対する謝意を表し、日本の考古学を志す若者を留学生として受け入れたことがあるが、その若者がこの本の中で「村田」という名で登場する。

エフェンディとは、土耳古語なのか英語なのかは分からないが、学問を修めた人に対する敬称の一つである。ディクソン夫人の屋敷が、様々な国の考古学者(徒)の下宿となっており、オットー(英国人)、デミトゥリウス(ギリシャ人)、村田のような人間が部屋を借りている。台所をまかされているのが、土耳古人のムハンマドであり、彼が飼っている鸚鵡とともに興味深い人物像を描き出す。日本人も商会を開く山田(実在らしい)、木下、清水などが次第に物語に入り込んでくる。鸚鵡が的確に、またシニカルに教え込まれた言葉を発したり、壁の牡牛の角が光りだしたり、日本から持ち込まれたお稲荷さんの像が走り回ったり、また盗掘されたらしいオシリス神が暴れまわったり、まことに奇妙キテレツな物語である。

梨木はこの中で何をいわんとしていたのか。読書ノートに書き付けたキーワードとして、ティレンティウスだかセネカだかの言葉に「私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない。」というのがあった。この本の中には、イスラム教、キリスト教、オシリス神、お稲荷さん、ギリシャ正教と様々な宗教が出てくる。上記の言葉こそ、種々の宗教を束ねるというか超越するヒューマニズムな言葉として存在するのではないかと思う。最後の辺りは、第一次世界大戦によって、かつてディクソン夫人の中庭で集い合った人々が、戦火に巻き込まれ亡くなったという手紙で締めくくられるが、よけいにかつての親密な交流がまぎれもない真実であったことが、記憶されることになる。

この『村田エフェンディ滞土録』の最後は、あの『家守綺談』を思わせる場面が登場する。おそらくセットで構想されたのであろうと想像する。


沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/11/27
  • メディア: 文庫



村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫



ぐるりのこと (新潮文庫)

ぐるりのこと (新潮文庫)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 文庫



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コメント 8

SAWA

お忙しい中なのに、読書、そして、ブログの更新などなど、と、、
本当に凄いですね~♪
そのエネルギーが更に元気を生んでくれるのでしょうね。


by SAWA (2009-11-16 15:56) 

whitered

SAWAさんへ:コメントありがとうございます。金曜日と土曜日、熱が出て寝ていました。でも、熱が下がると何かせずにおれず、梨木香歩の本を読み終えました。読み終えると、また新しい本を手に入れに行きたくなりま~す。
by whitered (2009-11-16 19:14) 

koji

こんにちは。
私も梨木香歩さんの作品は、大好きです!
「村田エフェンディ滞土録」
は、本当に好きなお話です。
私は、チュニジアを訪れたときに、
実際に宗教に関する対話の機会があって、
「キリスト教」、「仏教」、「イスラム教」が
サミットをするということがありました。
で、この本の中に、
こういうときに、まごついたり、迷ったりすると
「侮られる」というのが、心に残っていたので、
はっきりくっきり、仏教とういものの、本質”慈悲”
を英語で、説明したりして、
感心されたのを覚えています。
最後の方のオウムの一声で、私は泣いてしまいました。
梨木さんの作品のテーマは、私は
「友情」だと思っています。
by koji (2009-11-17 14:19) 

whitered

kojiさんへ:コメントありがとうございます。梨木さんのファンがいらっしゃるのはとても嬉しいかぎりです。チュニジアで宗教の対話の際に、仏教の中核をなすものは“慈悲”であると言われたのですか?すごく肝っ玉が据わっておられますね。英語で言うとどうなるのでしょう。この小説における鸚鵡の存在は、すごく重要ですね。いくつかの言葉を、その場に応じて使い分け、説得力がありますね。どの人もこの鸚鵡には一目を置いているように見えます。思わず笑ってしまう場面も多かったです。『村田エフェンディ滞土録』も『家守綺譚』もテーマを友情ととらえると、非常に分かりやすいですね。しかも、遠く隔たっている人とも、冥界の人ですら繋がりあえるような。
by whitered (2009-11-17 19:57) 

Ranger

読書ノートまでつけておられるなんて偉いなぁー
キーワードからよみがえってくる思いってありますよね

Rangerは読書すらめっにしてなくて、反省です
by Ranger (2009-11-18 11:18) 

whitered

Rangerさんへ:コメントありがとうございます。思い出したい時に、本のページをめくるより早く探せることがあります。自分が物忘れしやすくなったので、少しでも残るようにとの苦肉の策です。Rangerさんは、仕事が忙しすぎるからね。でも、仕事関係の本はお読みでしょう?
by whitered (2009-11-18 17:40) 

koji

こんにちは。まいどです。(^^ゞ
補足説明しますと、友人(キリスト教)と、その友人(イスラム教)と夕食を共にすることがあって、そのとき、何故か宗教話になってしまったのですよね~汗
自分は、出家しているわけではないので、ぜんぜん詳しくないのですが、
知っている範囲で分かりやすく、非仏教徒に説明するときは、
”mercy. Having sympathy for the pain of another person"
といっています。
”mercy”は、慈悲の対訳です。
が、自分にはなじみのない言葉なので、”共感、同情”のSympathyをよく使います。
”他人の痛みを(自分の痛みとして)共感する心”という感じですね。
”慈悲”という言葉の語源を調べたときに、私は、そのように思いました。
仏教成立当時の世の中は、厳しい身分制度があって、
「他人の痛み」を想像する必要なんて無かったと思います。
それでも、身分を越えて、人間の(心の)痛みを分かろうとすることが、
仏教の本質なのではないかな・・・と思ってしまいます。
「仏性」という点でも。
ちなにみ、キリスト教徒の本質は”愛”だと思います。
”慈悲”に近いのですが、日本人には、元からない概念なので、説明しろといわれても、
非常に難しいですね。
by koji (2009-11-19 12:05) 

whitered

kojiさんへ:ご説明ありがとうございます。“merchy”は、目新しい言葉ですが、以下の“sympathy for the pain another person”はすごく良く分かるような気がします。仏に帰依するというのは、さしずめ“sympathy for the pain Budda”ということなのでしょうか。キリスト教の“愛”も重なるのでしょうけど、“愛”というのは、非常に広汎な概念ですね。“愛”が横軸だとすれば、“慈悲”は縦軸かもしれませんね。宗教は願いによって成り立つのであれば、どこかで結びついているのかもしれません。そうあってほしいと思います。
私の疑問に答えていただき、ありがとうございました。一つ賢くなりました。
by whitered (2009-11-20 00:21) 

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